今週末は結局どこにも行く事無く自宅で本業に勤しんでおりました。
ちょっと前までなら、休日にメイド喫茶で過ごすってこと多かったんですけどね。今では時々、仕事場から行きやすいという理由で桜っこのランチタイムにお邪魔するくらいですかな。すっかり隠居が板についてきました。
あ、最近だったら、ちょっと様子見でかなり久しぶりにロミジュリへ行ってみた位かな。あ、もちろん隠居の身なのでお忍びでw 時々様子が気になってこっそり遊びに行く事があるんです。呼んでもらう名前は適当に付けてもらうか、お兄ちゃん(笑)にしてます。
札幌のメイド喫茶はメイドさんの入れ替えが結構激しかった時期があり、今ではすっかりメイドさんの世代も変わりましたので、直接会っても
「ども、クルトンです。」と名乗らないと誰だか分からないステルス機能内蔵ご主人様だったりするんですよ(笑)
この前は、つい道外から来てみましたー!><
と言ってみたところ、本当に信じてくれたりしましたw(ごめんなさい 汗)
1時間という短い時間ではありましたが、それなりに楽しませて頂きました。
さて、今日は最近ちょっと思った事があるので書いてみようかと思います。私はしばしば理想論が多いメイド系記事を書くと批判される事があります。でも、理想論者ではなくどちらかと言うと、現実問題ベースで物を書くタイプです。
皆さんが私の理想論だと思っている事は、理想ではなく
私、個人が抱く美学です。
「私のメイド喫茶美学」メイド喫茶には色々な固定観念(ステレオタイプな視点)があります。例えば、「メイド喫茶は萌え接客が基本」、「ご主人様・お嬢様と呼ぶのが当たり前」、「メイド喫茶はフードのクオリティは犠牲にする所」、「メイド喫茶は高い」、「メイド喫茶はオタクの集まる場所」・・・など。
私の美学の中にはこれらの固定観念は一切ありません。どの視点に関しても逆の視点を持っています。例えば、
・元来メイド喫茶はあらかさまに萌えを狙った接客はしません。あれは後付け要素。
・ご主人様と呼ぶ店が現れた歴史は古いが、昔は呼ばない方が普通だった。
・フードのクオリティを犠牲にするというのも、乱立期以降の話で、元々はバカに出来ないくらいうまいお店もあった
・メイド喫茶は本来、普通の喫茶店価格でやるのがスタンダードだった
・メイド喫茶はオタクが集まる場所ではなく、オタクに好まれる場所である
という視点で見ている事が多い。
私のメイド喫茶の美学において、メイド系をオタク一般人、男女を選ばずに食・雰囲気・娯楽を体感できる事の高みを追求し続けること。そして私はそれを追い求める人。私の書く記事は、すべてこの視点が入っています。
この美学の基本要素は「美味い、休まる、楽しい」なんだけど、この基本要素を満たしきれていない場合が多く、楽しいだけになってる気がする。楽しいだけならまだしも、(自分たちだけが)楽しんでる場合もあり・・・いやはやどうしたものか。。。
私がこうした考え方をするのは、初期の札幌メイド喫茶および道外の正統派・コミュニケーション型から刺激を受けているからなのですが、私の美学を満たすお店が実際に存在している(していた)事から考えて、私のは理想論ではなく美学だと言うことが分かって頂けるかと思います。
(この世の中に無いもんが欲しいとは言ってないですからねw)
ただ、この美学には絶対的な条件が一つだけあります。
「メイド喫茶をただありのまま楽しむのではなく、自分から楽しむ努力をする事」メイド喫茶を本質的に楽しみたければ、多少は自分から楽しむ努力をしないとダメなんですよ。でも、意識的に「自分が努力してる」と思うと急激に楽しくなくなります。
結局のところ日頃から、そういうメイド喫茶をたしなむ精神を持ってないと楽しめないという話になってしまうのですがね。
だから、秀逸なメイド喫茶は特定のターゲットに選ばれるお店なのではなくて、メイド喫茶を楽しもうと言う心得を持っている人だけが選ぶべきお店なのかもしれない。
本来はメイド喫茶を楽しもうと言う心得さえあれば、オタクも一般人も、男も女も関係ないはず。。。で、心から楽しもうと思っている客の気持ちを裏切らないお店と出会えれば、ベストマッチするわけです。
このとき、秀逸なメイド喫茶とされるお店が絶対にやってはいけないこと。
「メイド喫茶を真面目に楽しもうとしている人を裏切ってはならない」もしメイド喫茶を楽しもうと言う気持ちを持っている客だったら、多少の粗相は甘く見てくれるだろうし、良くしようと言う努力さえ垣間見えていれば、むしろ気持ち良さすら覚えるはず。次また来てみようと思うはずなのです。
でも、何時までたっても改善が見られず、現状に甘んじちゃってるよなぁ。。。これじゃ次来ても、楽しめそうも無いな。よ〜し他のとこへ行こう!
と思われると、本当にメイド喫茶が好きな客を逃しちゃう訳です。ま、本気でメイド喫茶をやる気が無いお店だったらそれで良いのかもしれないけど、メイド喫茶としてはもう評価されなくなっていると言う事なのでしょう。
私のメイド喫茶の美学において美しいメイド喫茶とは、
メイド喫茶の食・雰囲気・楽しさを趣味・背景・性別を問わず誰でも味わえるように努力しているお店の事です。
はたして、これって理想論ですかね?w
P.S.(プレ捨て):
メイド喫茶をメイド喫茶らしく楽しみたいという心構えを持っている人は結構多いけど、それに応えようとするお店は全国的に減ってきてるような気がするね。具体的にどことは申し上げませんけど。。。
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